がんになっても -がんの治療を、その人「らしい」生活のなかで。-

アストラゼネカ

文字サイズ

乳がん・前立腺がん・肺がんを中心に患者さん・ご家族の体験談、高額療養費制度などの情報を紹介

私からのメッセージ

円藤弘子さん
「プラス思考・楽しむ食事のすゝめ」

手術の恐怖は無かった

―― 明確に病名がわからないまま、卵巣あたりのがんだということで納得なさって、手術を。

 手術は納得しました。取れるものはさっさと取ってもらったほうがいいと友人たちもそろって言いましたし。2年前に胆嚢摘出手術を受けていましたので、全身麻酔の手術は全く怖くなかったですね。

―― いよいよ手術を受けなければいけないとなったとき、円藤さんは何を考えましたか。

 本を読むなと言われていましたしね。だからベストコンディションで手術に臨んだほうがいいと思い、よく寝て、よく食べて、ということを自分に言い聞かせ、普通に動いていました。

―― ずいぶん、勇気のある話ですね。

 手術に対する恐怖心はないのですから。リハーサルができていたことは大きかったです。胆嚢切除は今だったら内視鏡でもやりますが、当時は胸からお臍のあたりまでメスを入れましたから、荒縄で綴じたような痕がくっきりと残っているのを目にし、いささかドキッとさせられました。

―― 手術は怖くなかったとは言うものの、どう思われていましたか。

 死んでしまうのではないかという思いがありました。麻酔が覚めての私の第一声が「生きられる?」っていうドクターへの質問でした。後で主人から聞いた話では、先生もびっくりされたようです。突然の、場違いの響きを伴っていたからだそうです。

読書解禁、自分の病気のことは自ら学ぶ

―― 手術の結果、どのような状況だったのですか。

円藤弘子さん

 リンパ節への転移でした。それは手術後、化学療法を行なうということと共に、主人に告げられました。術後13日目に第一回の抗がん剤投与があり、1ヶ月 1回の投与で3回、その後3ヶ月休養というサイクルを3回続けるというものでした。私がお世話になった大学病院での化学療法は、当時は経過観察を含めて全て入院して行われていました。

 一旦退院して3ヵ月後、2度目のサイクルに入って4回目の投与が始まるなという意識で再入院したら、私を担当する研修医の方が、「円藤さん、腫瘍マーカーの値が少しづつ上昇してきている」と言いながらグラフを見せてくれました。ドッキリしたことは言うまでもありません。と同時に「あっ、もう読書解禁。自分でも、がんについてより多くのことを知ろう。自分なりの納得ができるように」と考えました。それからは学生生協の本棚をあさって、がんに関する専門書とか一般書を買ったり、立ち読みしたり。がんという病気とは何か、腫瘍マーカーが上がるとはどういうことかなどなど、にわか勉強に精を出しました。化学療法でしんどいときは死んだようになっていますが、食欲が出るなど調子のいいときにはほとんどベッドを離れ、病院の周辺を散歩したり、木陰で編み物をしたりしました。

―― 闘病中、つらかったのはどういうことでしたか。

 化学療法後の腫瘍マーカーがじりじり上昇しつつあるのを知り、命が縮まりつつあり、死ぬ覚悟もしなきゃならないかなという思いに襲われたときの絶望感ですね。そんなときは、痛みを和らげる薬もあるから痛みに苦しむことはあるまい、などと本から得た知識を反芻(はんすう)したりしたものでした。

辛い治療も“良薬”だと思って

―― 抗がん剤の副作用で悩まれたりしたことはなかったのですか?

円藤弘子さん

 もちろん、悩みました。でも、私はそれをあまり強調したくありません。抗がん剤を投与したほうが生存率がいい、生存期間も延びるとはっきりしているならやっていただきましょう、というのが私の偽りのない思いでした。いっぱい毛が抜けて、帽子をかぶっている人たちがいる風景を見慣れていましたので、自分もそうなる運命なのだと思いました。最初、ワン・サイクルの投与がすみ、第2ラウンドの4回、5回、6回目へと進みますと髪の毛は束になって抜けましたが、治療が終われば元通りに生1回目の手術1年後(1994年)・全カツラで娘・長女の結婚式に出席えそろうということは本にも書いてあるし、それは耐えるべきことと、自らに言い聞かせました。

皆さまの体験が誰かの生きる力になります

「自分らしくがんと向き合う皆さんの姿、想い」
「患者さんからご家族への想い」「ご家族から患者さんへの想い」

このようなテーマで皆さまからの
体験談を募集しています詳しくはこちら