がんになっても -がんの治療を、その人「らしい」生活のなかで。-

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私からのメッセージ

円藤弘子さん
「プラス思考・楽しむ食事のすゝめ」

難病の友人に学ぶ

―― お話を伺っていますと、円藤さんは冷静に、耐えて、事態を乗り切ってこられたようですね。フランスの寓話作家ラ・フォンテーヌは「忍耐はすべての扉を開く」と言い、またフランスには「忍耐は運命を左右す」という諺があります。

 病気に勝つための試練だと考えなければ、治療が成立しませんものね。それよりも私が意を注いで自分を励ましたのは、先ほども言いましたが、食べられるときにはできるだけ食べて、体を動かし、体力をつけるということです。そのせいか、私の場合、回復への立ち上がりが早いと、看護師さんは言っていました。これは本を読んだ成果の一つともいえますが、病気になったことを嘆いたり、悲しんだりしているだけでは免疫力も自然治癒力も落ち、奈落の底が深くなることもあると感じ、自分にできる治療に役立つことなら何でもやるとの決意で気分転換を積極的に心がけました。

 ALS(筋萎縮性側索硬化症)という病気に罹った友人がいますが、これは難病で、治療法が確定されていません。しかし、その友人は前向きに生きようとがんばっていました。その姿には勇気づけられましたね。がんにはさまざまな治療法があるのですから・・・。私が比較的冷静に病気と向き合えたのは、身近に難病の友人がおり、そのような考え方ができたということもひとつであると私なりに考えております。

主人、友達に支えられて孤立していなかった

円藤弘子さん

 主人のサポートにも頭が下がりました。わがままと言えばそのとおりですが、当時は米が不作でタイ米を輸入した頃で、病院の給食があわず、3食とも食事は主人の差し入れに頼りました。ヨーグルトや冷凍うどん、刺身や焼き魚に野菜、果物や卵などを運んでもらっていました。鍋焼きうどんや雑炊など簡単な調理を楽しみ、朝からおいしくを心がけました。夫が出張で食材が途絶えたときは、着替えて院内食堂へ患者仲間と出かけました。病棟の食堂近くには冷蔵庫や、電子レンジが備えられていたのは幸いでしたね。

通算200日以上に及んだ最初の入院期間でしたが、夫は根気よく食材や新聞、雑誌、書籍類を運んでくれました。根はやさしいひとですが、どちらかと言えば短気で、怒りっぽいところがあります。私の体調が悪いときなど、差し入れをカーテンの下からそっとベットの脇に入れてくれましたが、黙ってさっさと帰って行くこともありました。私の苦しんでいる姿を見るのが怖い、と後で言っていました。私の方も、そういう姿は見られたくありませんでしたので、あうんの呼吸の、スマートな対応だと思ったものでした。

 多くの周りの人々にさまざまな面で助けられ、勇気づけられたことは勿論です。テニス友達や学生時代のごく親しい同級生が入れ替わり立ち替わり見舞いに来てくれました。それらの人たちには病状等につき全てを隠さないで話しましたので、非常にざっくばらんな会話ができ、慰めや勇気を与えていただきました。吐き気などで気分の悪いときは来ないでねと、はっきり伝えておきましたので、見舞客に負担を感じるようなことはなく、ほんとうに大きく助けられたという思いです。周囲の人たちが私の闘病に共感をもってくれていると思われ、孤立感がなかったのが嬉しかったですね。

主人の転勤を機に転院を決意

―― ところで、転院をされたのはなぜですか。

 主人が東京への転勤となったのがきっかけです。がんが発覚して治療に入ってから丸一年ぐらい経ちましたが、なお出口が見えないまま苦しんでいた頃のことでした。東京の病院にかわれることに一縷の希望を見出しました。東京在住が長い長男のアドバイスで、西部新宿線の田無駅に近いマンションに引越しました。そしてかねてから希望していたがんの専門病院に転院することができました。 実は、大阪で治療を続けていたら、どうなるだろうと思っていたとき、執刀医の先生と率直な話を交わす機会がもてました。その席での先生のお話は、「抗がん剤が効いていないようなので、再手術を望むならする。しかし、手術開始後、状況によっては手術を中止することになるかも知れない」という私にとって怖いものでした。そんなわけで、病院をかえるチャンスはないものかという気になっていたところへ主人の転勤が決まり、いわば“渡りに舟”という形になったものです。

―― そこで再手術となりました。

ダンス大会出演

 そうです。でも、すぐではございません。大阪の病院に入院中、体調がよいときは外に出て体を動かすよう努めたとお話しましたが、東京ではフォークダンスの会に入り、大会に出場することを楽しみとし、外来での抗がん剤治療を受けていました。薬を投入するチューブを鎖骨の下につけたままハイネックのブラウスで、できるだけ世間に出るようにしていました。病気と闘うためのストレスなどに負けぬよう、常に明るく前向きにいこう、と考えたからです。転院後の主治医は、外来での投薬の際には、必要な説明と薬についての詳しい情報が記載された用紙を手渡してくださいました。炙り出し期間としていろいろやってみよういうことで、飲み薬も試しました。そうしたら腫瘍マーカーの値が大きく下がりましたので続行するのかと思っていたら、効く薬が判明したからとして即刻中止、問題のリンパ節の切除となりました。この頃ですか、大学病院からの申し送りのコピーを目にする機会があり、「卵巣がんのIII期」ということがわかりました。それまではII期だと思い込んでいたので、衝撃をうけたのをはっきり思い出します。

医療者との関係づくりの大切さを痛感

―― 医療者とのコミュニケーションで、
何か気づいたこと、考えたことがありましたか。

 大阪の大学病院では看護師さんの大きなサポートに助けられました。執刀医は最悪の場合を患者に伝えます。私の場合も、腸管まで切除する必要があるかも知れないが、そのときは人工肛門になることもあるとおっしゃいました。それを聞いていた看護師さんが、廊下に出てから、あれは万に一つという話です、そんなことはほとんどないから安心しなさいと言ってくれました。それから腫瘍マーカーの値が大きく上がり出して、悩んでいたら、先生と直接会ってみたらと言って、お膳立てをしてくれました。新築間もない明るい病棟で、いつも清潔なトイレ、毎日入浴できる広いお風呂がなによりでした。看護実習生がいれば一人ついてくれ、一緒に散歩しながら話し相手をしてくれたりと、周りのみなさんの手助けや雰囲気もよくて、環境には大変恵まれたと思っています。

 でも医療者とのコミュニケーションのむずかしさは、さまざまに語られる通りだと思います。医師の側からすれば、ごく当たり前のことを、当たり前のように話していることが患者にとっては脳天を突き刺す重大事となることがありますから。いま挙げた人工肛門の話は、その一例でしょう。私はやはり、入院中など日々、身近かに接する看護師さんたちと気軽に話ができる関係づくりをすることが大切かと痛感しました。どれほどの助けになるか口では表現できませんね。

 がんと向かいあう上では、本を読んで病気を知るなど自分の努力もさることながら、家族や友人そして、医師など多くの医療者とのより良い関係が不可欠と思います。医師はえらい先生で、気後れして言いたいこと、聞きたいことをためらってしまいがちですが、それは逆効果で、事態を悪くしてしまうということをまず確認すべきです。

次回は、「「がんと食事」の意味改めて知る」についてご 紹介します。

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