がんになっても -がんの治療を、その人「らしい」生活のなかで。-

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乳がん・前立腺がん・肺がんを中心に患者さん・ご家族の体験談、高額療養費制度などの情報を紹介

私からのメッセージ

上野創さん
「二度の再発、二度の無菌室を乗り越えて 」

東京育ち、のびのびと

――上野さんは東京生まれの東京育ちだそうですね。

  それがいちばん困った質問です。正確にいうと、生まれて数カ月、名古屋にいたはずなんです。ただ、もちろん記憶もないし、大学を卒業して朝日新聞の長野支局にいくまで、ずっと東京だったものですから、東京育ちということで・・・。

――小学校から中学、高校へかけて、つまり少年時代から思春期にかけての日々は、どういうものだったのですか。

 理屈っぽくて、けっこう扱いにくい子供だったのではないかと思います。特別、勉強の出来がよかったわけでもないし、運動に秀でていたというわけでもありませんね。ただ本を読むのは好きでしたし、体を動かすのも好きでした。だから、のびのびと過ごして、引きこもりもなく、大きな怪我や病気や挫折もなく、わりと平和に過ごしていました。

――大学を卒業して新聞記者を選ばれるわけですが、その理由はとの質問にはどうお答えになりますか。

 毎日、違うことができる、違う出会いがあるというイメージがあったので、そういう仕事をしたいという理由でした。ずっと同じ人間関係のなかで、まったく同じ業務を定年まで勤めるという仕事はあまり向かないだろうと思っていました。

――いつごろから新聞記者を志したのですか。

上野創さん

 実は、就職活動の直前まで、ずっとアルペンスキーをやっていたものですから、ろくに勉強もしないで運動ばかりの日々でした。いまの就職活動ではちょっと考えにくいと思いますが、3年生の終りの3月末まで雪山にいたんですね。4年生の4月になって、みんながとっくに走り出しているというので、自分も何か考えようということになり、具体的に職種を調べていったら、おもしろそうで、自分に合いそうなのが商社マンか新聞記者という結論でした。どっちかにいけたら幸い・・・という程度の感覚で、周到な準備も、高い志といったものもありませんでした。

駆け出しの長野支局で松本サリン事件とぶつかる

――駆け出しは長野支局ということで、三年でしたか。

 二年半です。

――それで横浜支局へ移られました。警察担当グループの事件記者として、そろそろ脂がのり始めるころだったと思いますが、病気が見つかりました。

 そうでした。長野支局では松本サリン事件を皮切りに、さまざまな事件や裁判の担当をしました。いわゆる事件屋、事件記者できたものですから、横浜支局でも自然な流れで神奈川県警を担当し、サブキャップの立場となって、これからいろんな記事を書けるぞというような気になっていたところでの病気発見でした。

――長野時代の仕事で一番記憶に残ることといえば、やはり松本サリン事件でしょうね。

 まったくの下っ端でしたので、上司、先輩から右へいけ、左へいけと言われながら、捜査の動きを追いかける毎日でした。夜討ち、朝駆けはもちろんです。毒ガスで死者多数という大きな事件だったことに加え、異常な宗教が絡むということで、特異な取材でした。また犯行に加わった若者や信者の精神の闇を垣間見る事件でしたし、一方で誤報が提起したメディアの倫理、責任という課題にも直面しまして、反省すべき点も含め、非常に勉強になる事件でした。

次回は、「26歳で病気発覚、思いもかけず」についてご紹介します。

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