がんになっても -がんの治療を、その人「らしい」生活のなかで。-

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乳がん・前立腺がん・肺がんを中心に患者さん・ご家族の体験談、高額療養費制度などの情報を紹介

私からのメッセージ

音無美紀子さん
「乳がんとうつ病を乗り越えて」

お転婆、目立ちたがり少女

――音無さんの中学、高校時代の夢は、体操の五輪選手、そして宝塚歌劇のスターになることだったそうですね。

 そうです。わりとお転婆だったんですね。私は六人姉妹の四番目、ちょうど真ん中で存在感が薄くて、小さいときから自分を売り込むというか、そういう潜在意識がすごく強かったのです。徒競走をやれば一等、リレーならばアンカー、いちばん目立つポジションをとりたいという願望が強い女の子でした。たまたま小学校時代の担任が、一年から六年まで通して同じ先生で、その先生の専門が体操だったのです。それで跳び箱とか平均台などをやらされましたが、私は目立ちたいばかりに、人一倍努力もしましたから、上手だったんですね。そしたら先生が「中学にいっても体操を続けて、選手になれば」とよく勧めてくれたのです。それで自然に体操の選手に思い入れをしたようです。ほかの教科はだめでしたが、体操と美術・音楽などはいつも成績がよかったです。

――それが宝塚に転じたということですね。

 中学に入って、先生の勧めのとおり体操部に入って、機械体操をやりましたが、華やかさという点からはほど遠いものでした。けっこう練習もきつかったです。そういう中で中学二年生のとき、友達と初めて宝塚を観にいき、舞台の華やかさにいっぺんに目を奪われてしまいました。学校でいやなことがあったり、テストの点数が悪くても、その舞台を観たらパアーッとすべてを忘れて幸せな気分になってしまって、こういうふうに観る人の心を動かし、感動を与える舞台の仕事につきたいと思ったのです。以来、宝塚ファンになって、何度も一つの公演を観ました。その頃の入場料は200円でした。いちばん安い席ですけど。そんなことを続けているうちに、夢は宝ジェンヌへと転じていきました。

体操選手、宝塚転じて児童劇団

――結果として、女優の道を選ばれました。

音無美紀子さん

 東京都内の中学を卒業して、宝塚音楽学校に入ろうと思いました。しかし、親は大反対でした。15歳かそこらで、女一人で親元を離れて遠くに行くなんて許せないということでした。もちろんお金もかかります。他にたくさん姉妹がいるのに、私にだけ多くのお金は使えないということもあったようです。そこで、とにかく高校へ行きなさいという親に従い、高校に入りましたが、私は我慢しきれず、児童劇団若草がたまたま新人を募集していて、学校に行きながらでも演技の勉強ができるというので、土日を利用して若草に通い、基礎勉強、訓練に励みました。

 今ふり返って考えれば、六人姉妹の真ん中という何事につけついてくる不利な役回りをはね返そうと跳び、撥ね、目立ちたがった少女の無鉄砲な願いが、天運にも恵まれ、道を切り開くのに成功したということでしょうね。

――ともあれ夢が叶ったわけで、幸せな青春のスタートだったと思いますが、やがてその女優の道で、俳優の村井国夫さんと出会われました。ご本によりますと、ほんとうに胸がドキドキ、ワクワクの“あこがれの君”だったそうですね。

 私がデビューする前から村井国夫という俳優の存在はテレビなどを通して知っていました。私が18歳くらいのときだったと思います。自由劇場っていうアングラ劇団が活躍し、話題となっていて、私も時々観に行きました。それに村井さんが出演していて、関心を寄せるようになりました。その彼が、私のデビュー作「お登勢」にキャスティングされてご一緒できるようになったときは、会うのが大変楽しみでした。

長男が難病に

――結婚し、お嬢さんに続いて、二人目が男のお子さんでしたが、生後ほどなく難病にかかるという不運に遭われました。

 長男は本当に健康体で生まれてきましたし、すくすくと問題なく育っていましたので、思いもかけなかった事態でした。生後10カ月ぐらいの検診に行ったとき、「どこか気になることがありますか」と医師に言われて、ときどき目が意識がないかのように虚ろになるようなときがあるのですが、「病気でしょうか」と尋ねました。専門病院を紹介いただいて検査したら、脳波に異常があるということでした。ひと月ぐらい入院したのですが、難しい病気だと言われたんです。

――転院され、別の先生にかかって、いい処方がなされたのですか。

音無美紀子さん

 なかなか思うような病状の回復がみられなかったということと、主治医だった頼りの先生がベトナムのベトちゃん、ドクちゃんの手術のチームに入ってベトナムに行ってしまうというので、私はすごく不安になりました。それで他の小児病院で診てもらいたいと思い、カルテを欲しいと病院と掛け合いましたが、すぐ応じてはもらえませんでした。けれども、また一からの出直し検査で、脳波やCTスキャン、脊髄液をとったりするのは、子供にとっては負担が大きく、かわいそうだからと懇願して、カルテをいただき転院しました。ちょうど治る時期と重なったのか、子供は回復に向かいました。

次回は、「乳がんの告知―人生暗転」についてご紹介します。

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