大腸・直腸がんの体験談

悩みや不安を抱えたときにどのようにがんと向きあえばよいのか。
自分らしくがんと向きあう患者さんやご家族の体験談・メッセージなどをご紹介します。

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体験談
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大腸・直腸がん 59歳 女性 主婦

平成22年の1月、主人の母は家族と共に正月を迎えた。しかし、山の中の小さな村、古い大きな家でもあるので、冬はとりわけ寒かった。母の体調も決して良いとは言えなかった。
「足がむくんで冷たいんです。手の指先もしびれて力が入らないんです。お腹が張って硬い感じで…。まだ息がつけるだけ最初に入院した時とはいいんだけどね」
「それはきっと寒さのせいでしょ。寒いと言って今までのようにベッドから出て歩き回ることも少なくなったし、動かないで血の巡りが悪くなるから足がむくんだり冷たくなったりするんでしょ」
 半分は希望的な見方だった。がんが進行していることは疑いも無い。しかし、暖かい所でゆったり過ごせば少しは楽になるかもしれない。歩いて体調が良くなれば、春には少しでも元気になって帰れるかもしれない。
「そうやね。少し暖かくなるまで入院させてもらおうかね」
母も素直に同意した。

 1月10日入院。病院のベッドに横たわると「ああ、ありがたい」と母は胸をなでおろしたように言った。私は病室に荷物を整理して入れ、売店まで必要なものをあれこれ買いにいき「また来ますね」と母を置いて帰った。
 1月13日、雪が降って出にくい空模様だったが「今日は行ってこなければ」と母の様子を見に行った。「良く来てちょうだったね」と母は喜んだ。「お風呂へ入れてもらうのに、もう2枚ほどバスタオルが欲しかったの。こんな雪の中、家まで取りに帰ってもらうのは悪いから、売店で買ってきて。喉が渇いて冷たいものが欲しいから、アイスクリームを買ってきて。2人で一緒に食べましょう」

 頼まれたものを買って戻ると、母は一口食べては「ああ、おいしい。ああ、おいしい。実家の母も昔こんなふうに喜んでアイスクリームを食べていたわ」と、昔の思い出を語ったりした。

『元気でよくしゃべるし、食欲も出てきたようだし、やはり入院させて良かったのだ。今度は16日ごろ見にこようかな』と思いながら帰った。

 15日の朝、主人の携帯に病院からの連絡が入った。

「お母さんの様子が変わったので、すぐ病院へ来てください」主人は職場からすぐ駆けつけた。
 かなりの雪が積もっていたので、村の中に止めてあった私の車はなかなか出られなかったが、昼過ぎにやっと出ることができた。母は意識不明で、酸素吸入器を付けていた。母の妹、主人の弟、そして私の呼んだ子供たちが次々と集まってきた。
 みんなが交代で付いていて、昼となく夜となく母の看護をした。ちょっと落ち着いて『急なこともなさそうだな』と思い始めた18日の夕方、母は静かに息を引き取った。穏やかな死に顔だった。小さくなった頭、やせ細った手足…。年寄りで病人だったのに、年寄り扱いされることと病人扱いされることが何より嫌いな母だった。
 元々口はうるさいほうだったが、病気になってから余計に口うるさくなり、『それだけうるさく言う元気があるのなら、絶対死なん。きっと治るに違いない』と思ったこともある。言わなくてもいい事まで余りにうるさく言うので腹を立て、『しばらく顔も見たくない、口もききたくない』と思ったことさえある。あとでインターネットで大腸がんについて調べていたら『大腸がんの患者は、栄養不足から気が短くなり、怒りっぽくなることもある』と書かれていたので『あれは病気のせいだったのかな』と一人合点したものだった。

 思い出せば嫁いできてから、母の世話になったことは数限りが無い。身重の時、実家を訪ねた私の帰りが遅くなったのを気遣って、雪の中傘をさしてバス停で待っていてくれた母の姿。自慢の裁縫でマタニティドレスを縫ってくれた母。4人の幼い子供を連れてあちこち遊びに行く時に、忙しい主人に代わって一緒に来てくれたのはいつも母だった。雪の朝、登校する子供たちがバス停へ行くための道を毎日のようにスコップであけてくれたのも母。そんな日の夕方は、主人と私の車庫の前の雪も母が除けてくれていた。
 若い頃、本当によく動いてくれた母だった。夫である人に先立たれ、人一倍苦労をしてきた人だった。
「ありがとうございました」棺の中の母に向かって手を合わせながらそう言うと、すすり泣きがこみ上げてきた。

勇気づけられた言葉、場面

母が私に魚屋さんへ払うお金をことづけて、魚屋さんへ電話した時「お金は子供に預けておきますので」と言った事。私を、嫁というより子供として見ているから、うるさい事も言ってくれるのだと思った。

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