がんになっても -がんの治療を、その人「らしい」生活のなかで。-

アストラゼネカ

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乳がん・前立腺がん・肺がんを中心に患者さん・ご家族の体験談、高額療養費制度などの情報を紹介

私からのメッセージ

坂下千瑞子さん
「がんを体験した医師の私に今できること」

アメリカ滞在中に見つかったがん

―― がんが見つかった時はアメリカに滞在中だったとか。発見までの経緯を聞かせてください。

 2004年、呼吸器内科医である夫のアメリカ留学に伴ない、1歳の娘ともども渡米しました。背中の痛みを感じたのは、1年半経った頃でした。最初は寝違えたかな、と思ったのですが、いっこうに治る気配がなく、しびれも出てきたので検査を受けたんです。その画像を見て、夫が「ここに何かあるよ」と胸椎(胸の奥の背骨)を指差しました。確かに輪郭のはっきりしない、2〜3cm大の腫瘍みたいなものがありました。

「ホントだ。確かに何かある。診断する為には、やっぱり組織検査が必要だろうね。どこから針を刺すのかな?」

 最初は、夫と話しあいながら、いつもの診察をする医師の立場から、客観的に自分の病気を診ていました。

 針を刺して組織を採取し、顕微鏡で覗く組織検査を受けたところ、病理医の診断は「骨原発の腫瘍の可能性が高いが種類がはっきりしない」との返事でした。そこで、病理の担当医は他の機関の骨軟部腫瘍の専門医に相談してくれました。その結果は、「身体のどこかにできたがんが骨転移した可能性もある」という意見でした。

 それまで主治医との間では、腫瘍を全部取り除く根治手術の話を進めていたのですが、骨転移の可能性を疑われ、執刀医からは根治を目的としない、負担の少ない手術の提案がなされました。診断に納得できず、疑い病名で自分の運命が決まってしまうことに強い恐れを感じ、夫や父と相談のうえ「生きるために出来るだけの可能性を追求しよう。」と帰国を決意し、その日のうちにチケットを買いました。その頃には背中の痛みが強くなり起き上がるのもつらくなっていたうえ、診断や治療方針が決まらないままだったので、とても不安でした。

「可能性のあることは全部やろう」と帰国を決意

―― 治療は帰国して受けられたそうですね。アメリカはがん医療の先進国ですからそこで治療を受ける選択肢もあったかと思います。どうして帰国を決意されたのですか。

 アメリカの主治医からは、病理診断が原発不明がんの骨転移であれば、根治的な大がかりな手術ではなく、ダメージが少ない、苦痛を緩和するような手術に変更して生活の質を維持する治療方針を提案されました。けれども、たとえ権威があるとしても、たった一人の病理医の疑い診断で自分の運命が決まることを、とても受け入れることはできませんでした。

「治すためにはどうすればよいか、この状況から脱出するにはどうすればよいか・・・」。インターネットで調べたり、日本でお世話になった先生に相談したり、主人や父とも何度も話し合いました。私の父も医師なのですが、日本に腫瘍脊椎骨を丸ごと切り取って治癒(ちゆ)をめざす手術をしている病院があるらしいと相談すると、父はすぐにその病院に連絡を取り、論文を取り寄せてくれました。私に適応があるのかは解りませんでしたが、日本に戻ればこのような手術を受けることも出来るかもしれないと望みを託したのです。何より、2歳半になったばかりの娘のために「生きたい」という気持ちが強かったのです。

 心配してアメリカに駆けつけてくれた両親は、家事や育児を全てサポートしてくれました。家族が一人でも病気になると、生活が成り立たなくなる。両親からのサポートが得られる日本で治療することに決めて、良かったと思います。日本に戻ることを決断した翌日に、両親や家族とアメリカを発ちました。成田空港から寝台車でそのまま都内の病院に入院しました。再度、組織の検査を受けても診断はなかなかつかず、骨原発の非典型的な脊索腫(せきさくしゅ)という珍しい腫瘍が、しかも通常はできにくい場所にできたのではないか、と説明されました。脊索腫であれば進行は比較的遅いし、うまくいけば長期生存が可能かもしれないと主治医に言われ、手術を受けることに希望を見い出したんですね。

難手術を受け、病気を治すのは患者自身と気づく

―― 手術は背骨ふたつを取る大手術だったと伺っています。不安はありませんでしたか。

 手術はその術式を考案した医師のいる病院に転院して受けました。手術の前には「悪いところを全部とってもらったら安心」と考え、術後のことに心配は及びませんでした。治療方針が決まったことにホッとして、「医師に治してもらえる」と思っていたのです。

 ところが大手術を終え、手術後の傷口の痛みやつらさと向きあっていく中で、考えが変わりました。つくづく治すのは患者である自分で、それをサポートするのが医師の役割だと気づいたのです。医師は確かに病変を取り除いてくれました。けれども、手術で傷ついた体を治し、元の元気な状態に戻っていくためには患者自身の治癒力が不可欠であると強く感じました。また、これから一生この病気と向きあい、それを受け止め、責任を負って生きていくのは患者自身であると確信しました。

医師にわかってもらえなかった患者としての想い

―― 手術後には別のつらい経験もされたとか。

  手術後の回復はわりと順調で、といっても2〜3時間起き上がっていられるようになるには数カ月かかりましたが、こんな難しい手術が受けられる日本に生まれてよかったと思いました。残念だったのは、手術で切除した組織を詳しく調べても診断がつかなかったことです。手術前の生検では採取できる組織が少なくて診断をつけるのが難しいことがよくありますが、手術後は十分に組織があるので期待していました。脊索腫(せきさくしゅ)とわかれば完全に治ることも期待できます。でも診断がつかなかった。

 診断がつかないと、治療後にどういう経過をたどるかの見通しも立たないので、治りたい一心の私にはどっちつかずの状態が不安でしようがありませんでした。きちんと病気と向きあっていくためには、ちゃんとした診断が必要だと思い、他の医師の意見を聞きたいと主治医に申し出たのですが、わかってもらえずに悲しい思いをしました。診断がつかないことと、わかってもらえないことが二重のショックでしたね。

 退院後は私の両親のいる大分に帰り、そこで療養することにしました。留学していた夫も道半ばで帰国し、国内で職を見つけることになりました。主人が側にいてくれてとても心強かったのですが、申し訳ない気持ちもありました。それに、あれだけ抱っこをせがんでいた娘が、事情を察していっさい私に「たっちして抱っこ」と言わなくなったのには心が痛みましたね。

2度の再発を乗り越えるということ

―― その後、再発が見つかったのでしたね。

 大分で療養しているうちに、お腹が痛むようになったんです。2006年の年が明けた頃からです。でも検査では何の異常も見つからない。ところが6月の定期検査のとき、PET画像で腰椎(腰のあたりの背骨)に転移が見つかりました。組織をとって調べると、「腫瘍が悪性転化をして骨肉腫様になっている可能性が高い」と言われました。取り除くためには大きな手術が必要で生活に支障をきたす後遺症が出るかも知れない、仮に手術をしても取りきれるかどうかもわからないという診断でした。

 「手術が出来ないということは、もう治る見込みがないということなのか?」ととても落ち込みました。そんな中、主治医から「重粒子線療法の適応があるかもしれないので、一度専門の病院を受診してみては。」と提案されました。調べてみると、高度先進医療として認可されている重粒子線療法という最先端の治療が、骨軟部悪性腫瘍に効果を上げていることがわかりました。臨床試験では手術に匹敵する治療成績が出ています。再び根治を目指して、この重粒子線療法を受けました。併せて抗がん剤治療も受けたのですが、こちらは想像以上につらいものでした。髪がバサバサと抜けることがどれほどショックなことなのか、体験して初めて解りました。全身がだるくなり、気持ちが悪くなり食事も取れず、精神的なダメージはこれまで味わったことのないほどつらく、とても大変な治療だと思いました。でも友人の医師の支えや同じ病棟の患者さんたちとの会話が励みとなり、「仲間がいる」という思いに支えられてがんばることができました。

 翌2007年に腰部の違う箇所に転移が見つかり、また同様の治療を受けました。前回と同じようにつらかった。そこで、精神科の先生に軽い抗不安薬を出してもらったところ、少し楽になりました。最近、よく診断時からの緩和ケアの重要性が言われていますが、早い段階で精神科の先生に相談する機会があると救われる患者さんが多いのではないかと思います。とはいえ、次に再発したらまたこの治療を受けなければならないのだろうか、いったい何度受ければよいのだろうかと、精神的にとてもつらくなることもありました。そんな中で私を支えてくれたのは幼い娘でした。娘のために生きようと堅く決意し、前に進むことが出来ました。生きることをあきらめなくて本当に良かったと思います。2度の再発の後にも、こんなに元気でいられるなんて、その時は想像もできませんでしたから。

次回は、「患者を支えるのは誰か」についてご紹介します。

<リレーフォーライフについて>

 リレー・フォー・ライフとは、1985年に、アメリカ対がん協会のゴルディー・クラット医師が始めたイベント。医師、患者さんやそのご家族、友人がチームを組んで24時間トラックを歩き続けるリレー形式のウォーキングイベント。「サバイバーズ・ラップ」(がん体験者が元気に歩く初めの一周)、「ルミナリエ」(がんで亡くなった人たちを偲び、今がんと向きあっている人々の勇気を讃え、一人ひとりのメッセージを記した紙袋にャンドルを灯す)などが共通プログラムとして行われる。地域社会全体でがんと闘うための連帯感を育む場としてリレー・フォー・ライフは大きく広がり、現在では全米4000カ所以上、世界 20ヵ国以上で実施されるようになった。

 日本でもリレー・フォー・ライフが2006年に始まり、がん患者さんやご家族、支援者らが公園などを会場に、交代で24時間にわたって歩き、がん征圧への願いを新たに絆を深めあっている。がんと闘うための寄付イベントでもあり、寄付金は日本対がん協会に集められ、広くがん患者さんの支援活動に使われている。2006年、茨城県のつくばで始まり、2007年に東京と、兵庫県の芦屋で開催された。2008年には、北海道の室蘭、横浜、芦屋、徳島、高知、大分の6カ所で開催され、参加者は計約1万2500人に上った。2009年は3月の沖縄を皮切りに、さらに多くの地域での開催が予定されている。2009年のリレー・フォー・ライフの各地の開催予定などは財団法人日本対がん協会ホームページ(http://www.jcancer.jp)で確認できる。

皆さまの体験が誰かの生きる力になります

「自分らしくがんと向き合う皆さんの姿、想い」
「患者さんからご家族への想い」「ご家族から患者さんへの想い」

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