がんになっても -がんの治療を、その人「らしい」生活のなかで。-

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乳がん・前立腺がん・肺がんを中心に患者さん・ご家族の体験談、高額療養費制度などの情報を紹介

私からのメッセージ

円藤弘子さん
「プラス思考・楽しむ食事のすゝめ」

ふる里の原風景は彦根城あと

―― 彦根市でお生まれになったということですね。

 はい。生まれて、結婚するまで彦根に住みました。

―― 彦根と言えば、江戸時代末期の藩主・井伊直弼が暗殺された桜田門の変が、すぐ頭に浮かびます。琵琶湖畔で景色もいい所ですが、円藤さんにとって、ふるさとの原風景はどういうものなんでしょうか。

 地名は彦根市本町と言います。彦根城の外堀に大きな石の橋がある町で、幼い時からずっとその石橋を中心に、外堀から内堀にかけての城あとが遊び場所でした。中学も高校も外堀の中にありましたから、学生時代の思い出もお城と絡みます。4人きょうだいで、2番目の兄が土手の桜の木から落ちて骨折し、キハダの粉なんかを貼り付けて、治療を受けていた姿が昨日のことのように目に浮かびます。私はゴムチューブ跳びなんていうのがありまして、真っ暗になるまで遊んでいましたね。昔は塾なんて無い時代でしたから。

―― 円藤さんという名字、ご主人の方のものでしょうか、珍しいですね。何か彦根藩との係りでもあったのですか。

  いいえ、農家の出です。私の旧姓は長崎で、祖先は江戸時代は両替商、明治にかけて米屋、それから紙屋と変わったようです。名字帯刀を許されていた商家だったようです。父はサラリーマンの家庭で育ち養子となって6代目を継ぎました。

次善の選択で管理栄養士の道に

―― 管理栄養士になられたのには何か特別な動機があったのですか。

円藤弘子さん

 いいえ、特に動機と言えるほどのことはありません。当時はまだ、女子には学問など要らないとの考えが世間にあったりして、次善の選択で地元の県立短大(現在は4年制)だったらということになり、育児と被服と食物の3コースの中から食いしん坊なので食物コースを選んで入ることにしました。栄養士免許と、中学の保健と家庭科の教員普通免許、それに衛生管理者と、いっぱい資格をくれる学校だったのです。管理栄養士はずーっと後に制度ができ、現在では全員が国家試験を受けます。私の場合は、在学中から就職先として、長浜赤十字病院が決まってましたので、そこへ就職しまして、私の職業人生はスタートしました。

―― 具体的な仕事の内容は。

 管理栄養士の役割は、病院の献立作成、医師の指示に基づいた栄養指導、食材のチェックなど管理全般にわたります。近年ではまた、入院患者一人ひとりについて、栄養アセスメントと言いまして、どの程度の栄養状態かを把握し、食事を的確に、きちんと食べているかどうかのチェックをするようになりました。とりわけここ2、3年、仕事の内容が複雑多岐になり、大変多忙になってきているようです。

がん発見のきっかけは閉経後の不正出血

―― そういう仕事をやってこられて、56歳でがんが見つかりました。忙しく、ご活躍されていたときですね。

 “かけ持ち出演中”といった頃でした。赤十字病院は結婚を機にやめ、サラリーマンの夫の転勤で博多、名古屋、高松などあちこち動き、大阪府茨木市に住んで7年目のころです。財団法人大阪市環境保健協会の職員として、老人保健法に基づく訪問栄養指導の仕事に従事し、ほかにも保健医療センターが実施していたヘルシーライフ教室のプログラミングなどで昼夜を問わず多忙をきわめていました。

 卵巣がんが見つかったきっかけは、私の場合はまれなケースだと思います。不正出血がありました。のちに専門書を調べましたら、卵巣がんで出血のある人は 1割強だと出ていましたので、その点は幸運と言えば、幸運でした。友達とクラシックのコンサートを聴きにいったりしたときなど、閉経後なのにおかしいわねなどと、女同士ですからそんなことを言い合ったりしまして、出血のあるたびに大阪市内の病院で知った女医さんとコンタクトをとっていました。その病院にはがん発覚の2年前に胆石で切除手術を受けたご縁でお世話になったものです。

 受診結果は、「血液検査では貧血がない。子宮筋腫は徐々に小さくなってゆくので心配いらない。1年後にまた来てください」というものでした。そのことを勤務先の保健婦長をしている上司に話しましたら、出血は何かおかしい。卵巣を疑ってみてはどうか、とおっしゃったのです。

 飛び上がるぐらいびっくりして、いつもの女医さんとは別の医師に診てもらおうと考えて、同じ病院の外来へ行き、腹部超音波と腫瘍マーカーの検査をしてくださいと頼みました。そしたら男性医師は画像を見ながら、10センチほどもの球形が写っている部分を指し、「これ、卵巣です。腫瘍のようです」と言うではありませんか。先生ご自身もびっくりなさったようで、すぐ手術すると言い入院の手配をされました。

セカンド・オピニオンを試みる

正直に言って、私は何が何だかわからないような気分に陥り、重い足を引きずって家にたどり着きました。そこで、常日頃から親しくしているお向かいのご夫妻がドクターと看護師さんのペアであることに気づき、すがるような思いで奥様に経過を話しました。奥様は、私の知ってる大学病院の先生の方がよいと言い、その場で電話をかけてくれました。今で言うセカンド・オピニオンを試みた、ということです。

―― そこで卵巣がんだとはっきり分ったのですね。

円藤弘子さん

  いえいえ、検査の結果は「すぐ手術が必要」と出ましたが、がんの告知はありませんでした。当時はまだ、がんの告知は一般的に行われていませんでしたし、その大学病院でもステージⅠ期の初期がんしか告げないと、患者の間などで言われていました。

 でも私はその時の状況からがんだなと思いました。紹介していただいた医師は当時45歳、さっぱりした方で、ウソも言わないけれども、聞かれないことはあまり説明をしないタイプの先生でした。その先生がコンピューターの前に私と一対一で対座していたとき、ふっと、悪性のデータが出ていると、話すともなく画像を指し示して言いました。告知と言えば、それが告知でしたね。私はそれ以上聞くのが怖かったので、何も質問もしないでその場は終わりました。その後、日赤時代からの親しい同じ年の看護師の友人に電話で、こういうことになっているのよと言ったら、私がけっこう神経質でくよくよすることを彼女は知っているので、「本屋へ行くな、本を読むな」と言いました。そして、深呼吸して、平静な気持ちで、心配しないほうがいいよって忠告してくれました。ですから、本屋さんには行かないようにしましたし、ドクターにも込み入った質問はしませんでした。

次回は、「治療の辛さは耐える価値あり…」についてご紹介します。

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