がんになっても -がんの治療を、その人「らしい」生活のなかで。-

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乳がん・前立腺がん・肺がんを中心に患者さん・ご家族の体験談、高額療養費制度などの情報を紹介

私からのメッセージ

音無美紀子さん
「乳がんとうつ病を乗り越えて」

お風呂でシコリ見付けるく

――幸いお子さんは快癒されて、音無さんご自身の女優としての仕事も、テレビ・ドラマの主役が回ってくるなど上り坂で高揚期に入ったとき、乳がんが見付かるわけですね。そのきっかけはどういうことだったのですか。

音無美紀子さん

 上の子が幼稚園の年長組だったある時、その園のお友達のお母さま方との雑談のなかで、当時住んでいた世田谷区の乳がん検診の話になりました。私はそういう事に意識も関心もなかったのですが、ある方が、乳房を手で触ったらシコリを感じたので、病院で検査を受けたらがんとわかり、良性だったので、患部をとるだけの手術ですんだ、という話をしてくれました。

 乳腺膿腫とか乳腺腫というものだったらしいのですが、シコリは自分で見付けることができるという話で盛り上がったのです。自分のおっぱいなんて自分で触ったこと、あんまりないよね、なんて言いながら、お風呂に入ったとき手に石けんをつけてやればいいなどと話がはずみました。

 その晩、家でお風呂に入ったとき、あ、そうそうと昼間の話を思い出し、教えられたとおりの方法で左胸の内側を触ったところ、シコリを見付けたんです。やけにごりごり固くて、これがもしか、という程度の軽い感想でした。

 すぐ病院に行ったほうがいいと夫に言われましたが、仕事が忙しく、知り合いに産婦人科の先生がいて、仕事場にも近い都心部の診療所を訪ねました。がんではないですか、との私の問いに、先生は「専門じゃないけど、僕の妻も三年に一回ぐらいこういうシコリができて、そのたびに取ってもらう手術をしている。同じようなものかもしれないし、そんなに心配することはないでしょう」と話されました。私の心配を大きくしないようにという気遣いだったと、今にして思います。仕事が一段落したら行っていらっしゃいと言って、大学病院への紹介状を書いてくれました。先生が「大したことないと思うよ」と言ってくれたのを私はいいほうにとり、「やっぱりそうだ、娘の友達のお母さんも良性だったんだし、私も三十代でがんというわけはない」と、全て自分に都合よく解釈しました。それから、仕事が一段落したらと思いながら、ずるずる大学病院へ行くのを延ばしているうちに、次第に大丈夫、大丈夫という意識のほうが強くなってしまい、二カ月ぐらいたってしまったのです。

 夏休みのシーズンとなり、軽井沢に遊びに行って、夫や友達とゴルフを楽しんだ晩に、脇の下が引きつる感覚がありました。子供を肘を立てて寝かせていたので、それだからかなと思いましたが、引っ張るたびにピッピッと痛かったんです。それで夫に「筋肉痛かしら、久しぶりにゴルフをやったから」と言ったら、「いや、ちょっとまずいかもしれないよ」って言うのです。軽井沢を早々に引き揚げて、遅ればせながら紹介状をいただいていた病院に行き、レントゲン撮影などの検査を受け、乳がんとわかったのです。夫にどう話そうかと思い悩むと玄関に足を踏み入れる勇気が萎えて、家の前の道を何度も往ったり来たりしたのでした。

セカンド・オピニオンに挑戦

――セカンド・オピニオンを試みられました。それには特別な理由があったのですか。

 もしかしたら診断が間違っているのではないか、というよりも間違いであって欲しいという思いが強かったですね。当時はまだまだ、がんについて情報不足の時代でした。告知はまれでしたし、診断、治療の情報についても、一般には今日のように流布していませんでした。

 私自身は、乳がんのことなど何もわからないし、もう少し情報を集めたいという思いがあったので、病院関係に詳しい親友に泣きながら「こう言われたんだけどどうしよう」と言ったら、「すぐ一緒に、もう一つの病院に行ってみようよ」と言ってくれました。それで二つ目の大学病院に行ったのです。日本の乳腺外科では、五本の指に入るという名のある先生を紹介してもらい、診ていただきました。

――そこで乳がんが再確認され、手術をやったほうがいいとの告知を受けたわけですね。その時、まずお考えになったこと、頭に浮かんだのはどういうことですか。

音無美紀子さん

  2つ目の大学病院のときは90%ぐらい、というか、覚悟があったのですが、最初の大学病院で手術の必要性を説かれたときには、何をどうまとめていいのか、頭の中が真っ白になりました。仕事が先々まで決まっていたところに、先生からいきなり「手術後三週間は退院できません、仕事のほうは大丈夫ですか」と聞かれて、「そんなの無理です」と、ぶっきらぼうな言葉が飛び出すのをやっと止めた思いでした。「そんな、ちょっと待ってください」って慌てふためいたように思い起こします。意識の中ではしっかりしなくてはと自分を叱咤するのですが、実際に看護師さんから「あとでもう一回検査があるので、いったんロビーでお待ちください」と言われたものの、膝ががくがくして立ち上がれないんです。脚も震えていました。あ、腰が抜けてるってこういうことを言うんだなって実感しました。一人の自分が、うろたえているもう一人の自分を眺めているという風景ですね。

 思い千々に乱れるという表現がぴったりです。やはり、当時、がんは死の病だと思われていたことが背景にありました。どうしよう、どうしようと気が焦る。子供の幼稚園への送り迎えは、食事の支度は、夫の公演も気がかりだし、自分の撮影予定も既に入っている。何よりも、家の中が暗くなるのでは・・・。思いは次から次へとめぐる。がんへの恐怖にさいなまれる一方、それにおびえている暇もない現実との狭間で、激しい葛藤に打ちひしがれる自分の姿が、今でも目に浮かびます。

 2つ目の大学病院へは親友が一緒に行ってくれたということと、ベテランだと言われている先生から、手術は一日も早いほうがいいとの診断が出て、即、入院手続きという手順まで示されるということで、比較的冷静に対応することができたと思います。あらかじめ覚悟ができていたという事情もありましたね。

 ただ、ここでの一番の気がかりは、夫にどう話そうかということでしたね。

――それで家に帰り、すぐご主人にお話をされたんですか。

 親友についていてもらって、夫の帰りを待ちました。夫は雰囲気を察したかのように、「結果がわかったの」と切り出しました。「じつは一刻も早く手術しないといけないみたい」。押しつぶしたような声が、やっと出ました。それから、「大丈夫、死にはしないから。悪性ではないのだから」、「そうよ、ほんの初期ですって」、「子供もいるし、乳がんくらいで死んでたまるかっていう気持ちよ。必ず生還するから心配しないで」。次々と強がりの言葉を吐き出せたのも、親友がそばについていてくれたからだと思います。

夫のリードで全摘手術を決意

――入院し、乳房の全摘ということになりました。最初の病院では温存手術も可能と言われていたのではないですか。

 私が治療の選択をした当時、担当の先生より、欧米では温存手術が主流になりつつあるが、まだ充分なデータがあるわけではなく、当時としては全摘した場合は、それよりいい成績であるということをていねいに説明してくださいました。

 付き添っていた夫が、私の返事を制止するように突然、言葉を発しました。「先生、もう、ばっさりやってください。形じゃないんです、命です」。えっ、手術を受けるのは私なのに・・・。呆気にとられるぐらい夫の話は断固としていて、私が口をはさむ余裕などありませんでした。「一つ残らずがんを取り去ってください」。本当に必死の訴えに聞こえました。

 後に出版した共著の本で、夫はこう書いています。「僕には、君が女優であり、女性であることよりも、人間として、妻として、母親としての君が大切なんだ」。

全てを隠す

――入院―手術の事実を極秘にされましたね。すべてを外には言わない、隠すということでした。

 私自身が決めました。テレビ、週刊誌のスキャンダル、ゴシップの種にだけはなりたくない。それが第一の思いでした。そういうところで面白おかしく取り上げられるのは、耐えられない。乳がんということになれば、もうおっぱいがないとか、取っちゃったとか、そういう表現でしか取り上げられないことがわかっていましたから。私はまだ三十代で、女優として歩み続けることに希望も夢も持っていました。俗に言う脱ぐとかということではなくても、手術した体を想像 されるだけでいやだったんです。できることなら漏れないようにと強く願いました。

 いろいろのことに随分気を遣いました。病院の了解を得て、病室の入り口に揚げる名札には、親友の名前を借りました。室外に出るときには、顔がすっぽり隠れる大きなマスクを掛けました。夫の考えは「病気なんだから何もこそこそする必要などないが、わざわざ発表することもない。君がそう思うのなら、隠していこう」と賛同してくれました。

次回は、「うつ病との闘い」についてご紹介します。

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