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私からのメッセージ

関原健夫さん
「六回のがん手術を乗り越えて−サラリーマン人生」

55歳定年まで生きられた喜び

―― 2001年に『がん6回人生全快』を執筆されましたね。どういった経緯から執筆を決意されたのですか?

  現在の企業社会の定年は60歳ですが、私が社会人になった頃は55歳定年の時代でした。最初に大腸がんが早期ではなく、進行がんの段階で見つかったのは 39歳のときでした。その後、5回の転移・再発に見舞われたため、定年となる55歳まで生きられるとは全く思っていませんでした。それが55歳を迎えることができたのです。最後の6回目のがんの手術を90年にして10年経っていましたので、「もう大丈夫だな」と思えるようになったんです。常に再発を心配していましたが、生き延びたことを自分でようやく確認でき、「ひとつの区切りを迎えたな」と感じていました。そして、私が生きていられるのは、私の病気と必死に戦ってくださった病院と医師・看護師を含めた医療従事者の方々のお陰です。がんと向き合う彼らの仕事が如何に大変なものか、そのご努力を万人に知ってもらい、感謝の気持ちを伝えたいと思っていました。

 また、私は日本興業銀行に勤めていたんですが、普通、サラリーマンががんを患いながら仕事を続ける場合には、様々な社会的ハンディがあると聞きます。でも、私の職場は、良い意味で病人を病人として扱わず、健常な人と同様に責任のある仕事を私に任せてくれました。がんは安静に休んでいれば治る病気ではありません。がん患者にとっては「生きがい=仕事」を持って病に立ち向かうことがどうしても必要です。その機会を与えてくれた興銀という職場に何より感謝していました。

 その頃、出版やマスコミに関わる何人かの友人から、「君が生き抜いた経験は非常に素晴らしい話で世の中に役に立つはずだ。是非本を書け」と勧められました。一介のサラリーマンが、サラリーマン人生の一番大切な時期をがんと戦いながら仕事を続け、生き延びたということはサクセスストーリーだというんです。確かに私自身、闘病中に闘病記を読みましたが、多くは作家や医師が執筆したものであり、普通のサラリーマンの闘病記と出会うことはありませんでした。しかし、世の中の働いている人間の多くがサラリーマンだと気づき、「自分の体験が同病者の励みになるかもしれない」と考え、筆を執ることにしたわけです。

告知

―― 39歳でがんを疑い、診断を受けられたときどのような兆候があったのでしょうか?

関原健夫さん

 当時、私はニューヨーク支店の営業課長に昇進したばかりでした。ニューヨークに赴任してちょうど1年が経つ頃でした。

 初めに違和感を持ったのは「便秘」でした。私は昔から便秘の症状がありましたから、便秘自体は特別なことではありませんでした。しかし、いつもよりもトイレに行く回数が増えたり、排便の後に必ず残便があり、「ちょっといつもと違うな」という感じがありました。仕事中だと気づかなかったかもしれませんが、ちょうど休暇で、妻と旅行中だったので気づいたんです。

 旅行後に、ある雑誌に大腸がんの特集を見つけました。何気なく手にとってみると自分の症状と似ているなと思い、「自分は大腸がんではないか」と気になり始めたんですよ。でもその後、すぐに病院に行ったかというと、実はそうではありませんでした。これが「がん」なのですね。今振り返ってみると、「がんでないか」と心配しながらも、「がんと診断されるのが怖い」「がんから逃げたい」という気持ちが強かったのだと思います。そのうち、「人一倍、健康に気をつけている自分ががんにかかるはずがない」「当時の自分が、なぜがんになるのか」と否定するようになり、病院のアポイントをとっても、仕事を理由に何度かキャンセルしていました。

―― 医師からどのように告知を受けたのですか?

 診断結果はすぐにその場で出ました。「トゥーマー(tumor=腫瘍)がある」といわれました。「腫瘍」と「がん」の区別がいまひとつはっきりしておらず、少し拍子抜けした感じがありました。冷静に考えれば「がん」なのですが、認めたくない、という気持ちも手伝っていたのかもしれません。しかし、その後すぐに医師から「手術が必要です」といわれ、「がん」なのだと分かりました 。

―― その時、どのようなお気持ちでしたか?

 「どうしよう・・・」。私が告知を受けたのはニューヨークです。手術を受けるといっても、このままアメリカですぐに入院するのがよいのか、日本に帰ったらよいのか。がんを告知されたショックよりも、当面の対応に大変苦慮しました。当時の私には判断するための情報が圧倒的に不足していました。そこで、4年前に胃がんの手術を経験していた、京都に住む父親に電話をかけて相談しました。父は大学病院の執刀医にアドバイスを仰ぎました。執刀医のコメントは、

  • 『大腸がんの症例は、アメリカでは非常に多く、ニューヨークの一流病院であれば技術は確かであること』
  • 『日本に帰って病院探し、検査を一から行うと、手術を受けるまでに相当の時間がかかる可能性があること』

から、ニューヨークで手術を受けることを勧められるものでした。英語で症状をしっかり伝えられるか不安は残りましたが、勧めに従ってニューヨークで手術を受けることに決め、少し落ち着きました。

―― アメリカでの最初の手術はいかがでしたか?

 手術は無事終了し、術後米国人執刀医から「手術はうまくいった」と告げられ、体調はみるみると良くなりました。手術2日後には腹部のドレインが、その翌日には尿管が外されました。3日後には食事も普通食になり、4日後には非常に体調が良くなっていました。 その日(手術4日後)の夕方、執刀医より深刻な病理検査の結果を聞かされました。

  • リンパ節にがん細胞が多数認められ、がんは早期ではなかったこと
  • 転移・再発の可能性が極めて高く、統計的には5年生存率は20%程度であること

 医師は、リンパ節へのがんの転移の個所を図解して説明しました。また、病理レポートには、切除した13個のリンパ節の内、7個に転移があったことが記載されていました。

 実は、長い闘病の中で私にとってこの告知が最も衝撃が大きく、この後のがんとの闘いに大きな影響を与えるものとなりました。日本人の医師から、アメリカの医師は訴訟のリスクを回避するために、診断結果をより厳しく説明する傾向があると聞かされましたが、やはり厳しい現実を突きつけられたように感じました。

 翌年、現職のロナルド・レーガン大統領が大腸がんを患い手術が行われ、様々な雑誌が大腸がんを詳しく報じていました。その中で、「デュークス(進行度合)C段階での5年生存率は、リンパ節転移がどの程度あるかによって大きく異なる」ということが記された記事に目が留まりました。転移数が3個以内であれば60〜70%、10個以上あれば15〜20%に過ぎないという記事でした。医師が私に伝えた20%の意味を改めて理解するデータでした。

 また、友人のジャーナリスト千葉敦子さんが私の病状を心配して手紙をくれました。(彼女とは以前日本で仕事の関係で知り合い親しくしていました。同じニューヨークで乳がんが再々発し、化学療法の治療を受けていました。)彼女からは、手紙の中で『「もし治ったら」「治ったときには」という幻想の世界に住んでいたのでは、そうならなかったとき(そのほうが確率は高いのに)の幻滅が大きすぎる』ことを指摘され、状況がいかに深刻であるかを再認識し、限られた人生を精一杯生きることの大切さを教えられました。

 言い方の問題かもしれませんが、もし「リンパ節にがんが見つかりましたが全て取っておきました」というような説明や余後について具体的な話がなかったり、逆に「あと、余命○ヶ月です」というような全く希望の無いような説明を受けていたら、絶えず楽観、悲観の気持ちが揺れ動き、心の安定は保てなかったに違いありません。生存率2割の希望を持ちながらも、8割のことを考えて「どう生きるか」を真剣に考える、という、その後の考え方を決定づける米国流の完全な告知でした。

―― 正確な情報を得られず、残念な思いをされたことはありますか?

 それは私自身というより、胆道がんで亡くなった私の叔母のことを思い出します。私の父が叔母を見舞った際、がんではないかという疑いを抱き家族に尋ねたのですが、病名の話は一切無く、そのうちに元気になる、とがんの疑いをきっぱりと否定されたことがあったのです。胆道がんの手術といえば、がんの手術の中でも最も困難と言われ、手術の成功と長期生存はかなり難しいようです。叔母に耐え難い精神的不安や恐怖に陥ることだけは避けてやりたいとの思いから、このような対応になったのだと想像しています。

 しかし、賢明な叔母でしたから、自分の病気や余命については、ある程度気づいていたと思うのです。術後の短い期間、私のアドバイスを聞きたかったかもしれない、仲の良い兄弟たちと語り合いたかったかもしれない。そう思うと残念でなりません。

 日本人は3人に1人ががんを患い、日本人の死因の第一位になっており、いまや特別な病気とはいえません。余命の具体的な数字まで伝える必要は無いと思いますが、病名まで隠す必要な無いのではないかと思います。がんを患うことは生死に関わる問題です。また、がんと向き合うのは患者自身です。己の厳しい行き先を踏まえて、どんな生き方をするかは、子供や配偶者ではなく、自分自身で考える最も大切な問題だと思います。

家族・職場のコミュニケーション

―― 奥様、ご両親など、ご家族にはどのようにお伝えになったのですか?

 先ほどお話しましたように、妻は、病院に一緒に行きましたし、医師との面談にも同席していますので、全て知っています。また、両親には「がんの告知を受けた」「手術が必要だ」と電話で報告し、「どちら(日本かアメリカか)で手術をすべきか悩んでいる」という相談をしました。

 術後の経過が順調で、また金融の最前線のニューヨークで仕事を続けたい気持ちが強く、仕事が面白いということもあり、アメリカで定期フォローを続けることを考えていたことがありました。そのとき、父が「今、何が一番大事かを考えて欲しい」と私に言いました。がん闘病は生死をかけた闘いなので、「今一番大切なこと」は「再発を防ぐためにベストな対応をすること。また万一再発したときに備えること」であり、サラリーマン人生が犠牲になってもたいした問題ではないことを気づかされました。人間は少し調子が良くなると、目先のことを考えてしまうものですね。人生一大事のときに、冷静に今何が一番大切かを考えさせてくれる存在が身近にいるかどうかが、非常に重要だということを感じました。

―― 職場にはどのようにお伝えになったのですか?

 はじめは言いたくないな、という気持ちもありました。しかし、アメリカの医療費は非常に高く銀行が保険をかけており、会社に医療費を負担してもらうこと、 2−3週間仕事を休むため、きちんと報告しました。ただし、上司には正直に話しましたが、周囲の人たち全てにがんだと伝えたわけではありません。人間、自分に都合の悪いことは言いたくないものですからね。

がん告知を受け入れていく過程

―― 初めの大腸がんから、肝臓に2回、肺に3回転移されましたね。どのように受け容れられてきたのでしょうか?

関原健夫さん

 再発までの不安は誰しもあると思いますが、最初のがんがどの程度の進行度合いで発見されるかによりだいぶ異なると思います。私の場合は、生存率が2割、つまり再発の可能性が8割あるわけです。ですから、「転移・再発」の告知をどう受容するかを毎日のようにトレーニングしていました。「再発してもやむを得ない。これが己の運命なんだ。」と自分を納得させ、覚悟を決めるトレーニングです。例えば、戦争中特攻隊として二十歳で亡くなった人の最後の手紙を読み、「彼より20年も長く生き、ニューヨークでこんなに活躍できたではないか」と言い聞かせるのです。

 また、恐怖に震えるだけでは何の解決にもならず、決して心の平安は得られません。仕事も遊びも精一杯やりました。この意味でも、人並みの仕事ができるというのは大切なことでした。

 最もつらかったのは肝臓に転移したときです。当時、肝臓の手術は始まったばかりで、その頃私は肝臓に転移しながら生き延びた人を知らなかったのです。柳田邦男さんの著書『ガン50人の勇気』にも、最初の手術はうまく行ったが、数年後に肝臓に転移して亡くなったという人たちの話が記されていましたので、「もうだめだ」と本当に死を覚悟しました。また、2回目の肝転移手術から僅か2ヵ月後に肺転移を告げられたときには、「いよいよ全身に広がるのだ」という恐怖がありました。

 転移・再発のたびに主治医から、「手術できるのはラッキーだと思ってください」と言われました。私は初め、「手術しないで済むならラッキー、手術を受けねばならないのがどうしてラッキーなんだ」と思っていたんですが、手術を重ね、多くのがん患者の方々と接するうちに、「手術できるのは、生存の可能性があるということなのだな」と信じられるようになりました。ですから、「肺に転移しました。4回目の手術をしてください」と言われたとき、「いよいよダメだ」と思う反面、「手術できるということは望みがある」と思えるようになりました。

次回は、「日米のがん治療環境について」お話いただいた内容をご紹介いたします。

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