がんになっても -がんの治療を、その人「らしい」生活のなかで。-

アストラゼネカ

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乳がん・前立腺がん・肺がんを中心に患者さん・ご家族の体験談、高額療養費制度などの情報を紹介

私からのメッセージ

垣添忠生さん
「医師として、がん体験者として、そして妻をがんで亡くした夫として」

同じ苦悩を抱えている人に〜『妻を看取る日』を著した理由〜

――2009年の年末に『妻を看取る日』が出版されました。なぜ本を出されたのか、お聞きしたいのですが。

妻を看取る日

 2007年の暮れ、がんを患い入院していた妻がどうしても家へ帰りたい、と言うので用意を整えて12月28日に迎えたんです。その嬉しそうなこと…。しかし翌日には妻の容態が悪くなり、あんまり苦しそうだったので担当の先生に来てもらったり、妻が頼んでいた近くの方にも手伝ってもらったりして手は尽くしたのですが、次の日には意識がなくなりそのまま亡くなりました。大晦日でした。自分の病を理解し、受けとめていた妻は、死期を悟っていたのだと思います。

本を書いたのは、妻を失った私が半年間どん底に陥り、自殺も考えて、 そこからどうやって立ち直ったか、同じ苦悩を抱えている人に読んで もらい、何らかのお役に立てればと思う気持ちがあったからです。

生命の不思議さに惹かれて医師を志す

――奥さまを看取られた経験については後ほど詳しくお聞きしたいと思います。まず、先生ご自身のことについて、医師を志した動機から教えてください。

  私が幼年時生まれ育ったのは大阪郊外の、近くに溜池があったりして自然豊かな所でした。小学校の1〜2年までそこで育ったのですが、そういった環境ですから昆虫だとか野鳥だとか、生物への関心が自然にわいたことが素地にあります。高校2年生のときに飼い犬が死んで、抱いているとどんどん冷たくなっていったときには生命の不思議さを実感しました。また、母が病気がちでよく寝込んでいたことも影響したと思います。

――泌尿器科を選ばれたのはなぜですか。

 泌尿器科は腎臓、膀胱、前立腺などを扱う領域ですが、がん、感染症、結石、代謝性疾患、生まれつきの病気などもあって、奥が深いんです。患者さんの症状や検査所見から病気を推察する内科的な要素、手術で病気を治す外科的な要素、両方を併せもっている。そこに魅力を感じました。もともと外科医志望で、そのころ、腎移植が始まったのも大きかったかもしれません。

当時泌尿器科はあまり人気がなく、同級生120人のうち泌尿器科に進んだのは私一人だけでした。しかし自分にとっておもしろいと思えることを選んだので、不安に思うことはありませんでした。

がんの専門医を目指す〜臨床と研究の必要性〜

――いつ、がんという病気を専門とする医師になりたいと思ったのですか。

垣添忠生さん

 卒業後、1969年に医師免許を取って、都内の一般病院に出向していたときですね。

いい医長がいて泌尿器科の基本を教えてもらいました。ただ当時の泌尿器科では、手術のとき腹膜が開いてしまったときも、その内側にある胃や腸などの様子を見ずに、すぐに腹膜を閉じていました。もし、がんの手術であれば、転移の可能性も考えてお腹の中の臓器も見ておくべきじゃないか、また将来、腸を使って尿路も再建したいと思ったこと、また膀胱がんが何度治療しても再発するのを見て、その理由についての研究が必要だと思ったこと、こういった課題に気づいたのが大きなインパクトになったと思います。

 まず広く腹部外科の技術・知識が必要と思い、次の外来病院へ移りました。個人病院ながら手術件数が非常に多い病院でしたが、特に胃や大腸のがんの手術が多かったです。副院長が手術の名手で、手術の基本手技を叩き込まれました。月に一度、土曜日の朝に出勤して、月曜の夜まで働く宿直などもあったのですが、技術を覚えるのに没頭していたので全然苦にならなかったですね。

この経験から、膀胱がんの手術で、膀胱を全摘したあとに患者さんの腸を使って新膀胱をつくり尿道につなぐ手術をごく自然にやれるようになりました。

――国立がんセンターにはどのような経緯で入られたのですか。

 出向した病院で手術の腕は磨けましたが、膀胱がんの再発の仕組みを研究したいという課題には東大の医局に戻ってからも取り組めず、まだ道半ばという気持ちがありました。そんなとき、国立がんセンターに派遣されることになりました。

その当時の国立がんセンターは、仕事がきつい割には給料が安い、だけど国立だからアルバイトはやってはいけない。ないないづくしで人気がなかったです。しかし研究も臨床も両方やりたい私にとっては理想的な環境でした。

――当時の様子を教えてください。

 研究所の生化学部長として、後に総長にもなられた杉村隆先生がいらっしゃいました。魚や肉の焼け焦げの中に、それまで知られていなかった発がん物質があることを発見するなどすぐれた業績をあげられた方です。その杉村先生の厳しさは尋常でなく、怒鳴ると白墨が飛んでくるようなことがしょっちゅうあったんです(笑)。先生にはずいぶん鍛えられました。

臨床にも研究にも夢中になりました。朝早く動物を確認したあと、患者さんを回診し、手術か外来を受け持って、夕方の回診をして、研究所へ行って実験。最後に動物舎をまわって、家に帰るのは夜11時ごろ。それが毎日です。実験をしているときは正月も関係なしでした。

今の医師は忙しくて、臨床なら臨床、研究なら研究どちらかしかできません。それが当時は両方できたのです。その意味では幸せな時代でした。

――その後、国立がんセンターの病院長や総長を歴任され、「がん対策基本法」の制定にも尽力してこられたわけですね。

 国立がんセンターで責任のある立場になってからは、膀胱がんではみんなで力を合わせて治療をしていく必要性を感じていたので、チームをつくって新しい手術の研究を進めました。

まだチーム医療という言葉がないころのことです。 また、1984年、「対がん10か年総合戦略」の研究事業の一環としてアメリカに派遣される機会を得て、メイヨークリニックで前立腺がんの手術を学び、がんセンターに取り入れました。当時のわが国では早期の前立腺がん手術を実施する機会はありませんでした。

そのころから厚生労働省の審議会や検討会などの委員、座長、そして学会などの仕事が多くなってきました。また、患者さんの声がきっかけとなった「がん対策基本法」が2007年に施行されました。私もがん対策を推進していく一人として関わりをもってきたのですが、現実にはまだまだいろいろな課題が残っていて、もう一仕事も二仕事もしなければいけないと思っています。

患者さん一人ひとりの想いや目標を大切にする

――これまでに多くの患者さんやご家族と接し、大切にしてこられたことは何ですか。

 患者さんは一人ひとり、本当に多様なんですね。特に進行がんで見つかったときは、違いがあります。一生懸命治すことに全力を尽くす人、あまり治療は積極的に行わず残された人生を充実させる方がいいと言う人、いろいろな人がいます。つまり、どう病気と向きあうかは、その人の人生観、死生観、価値観、パーソナリティー、家族構成や社会的立場などによって左右されるから、一人ひとりの想いや目標が違うのです。

その中で私が大切にしてきたことは、一人ひとりの患者さんが個々の目標にあわせて最良の選択を行えるように、患者さんやご家族への説明をしっかり行い、相手の立場で接することでした。一貫してこれを実行してきました。

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