がんになっても -がんの治療を、その人「らしい」生活のなかで。-

アストラゼネカ

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乳がん・前立腺がん・肺がんを中心に患者さん・ご家族の体験談、高額療養費制度などの情報を紹介

私からのメッセージ

垣添忠生さん
「医師として、がん体験者として、そして妻をがんで亡くした夫として」

治せないがん

――奥さまの病気や治療の経緯はどうだったのですか。

 2000年に左の肺にがんが見つかったのがそもそもの始まりです。腺がんと言って、日本人の肺がんの半数を占めています。この時は手術で治りましたが、数年して次に甲状腺がんになり、しばらくして頸部のリンパ節に転移しました。どちらも手術をして治りましたが、再発の心配があるので、最低でも5年間は定期的に検査を受けていく必要がありました。

 2006年春、その経過観察で、今度は右の肺にりんごの種ほどの小さな影が見つかりました。3ヵ月待って再検査をするとさほど変わりはなかったのですが、さらに2ヵ月後に検査をしてみると明らかに大きくなっていてドキッとしました。新たながんが見つかったのでした。

垣添忠生さん

  担当医と話しあって治療法を検討しました。前回の手術で肺の一部を取っているため肺機能が低下しているし、持病の膠原病でステロイド治療をしている影響で肺の組織が脆くなっている。手術は回避して、放射線治療の一種で、日本ではまだ公的医療保険が適用されない先進医療である陽子線治療を受けました。

 この治療で完全に影が消えて喜んだのですが、半年後に肺門部に再発、悪性度の高い小細胞肺がんであることを確認しました。それを抗がん剤で治療するうちに全身に転移しました。この進行の様子から見て、さすがにこれはダメではないかと思いました。

――このとき、どのようなことを感じておられましたか。

 私自身は妻の病気を治すことができそうにもないとわかったとき、一時的に「病気に負けた」という無力感に襲われましたが、最善は尽くそうと思い、事実その通りにしたと思います。妻が助からなかったのは、現代医学の限界だったと考えざるを得ません。そして、この限界を破るのは、基礎研究であると考えています。

――奥さまの病気との向きあい方をどうご覧になっていましたか。

 妻はその後、抗がん剤治療も受けました。本当は、つらい治療は受けたくなかったのでしょう。「あなたのために受けているのよ」と言いました。何とか妻の命を救いたいと必死になっている私の期待に応えてくれたのでしょうね。

 全身に転移していることがわかり抗がん剤治療を受けていたころから、妻は自分がこれからどうなるか、つまり明確に死を意識していたのだと思います。

――奥さまは、最期を家で迎えられたわけですが、その要望を叶えるための準備は大変だったと思われます。どのように奥さまを迎えられたのですか。

 自分の命が間もなく尽きようとしていることを妻はよくわかっていました。最期は家で迎えたいという思いは切なる願いだ、と私は痛いほどわかっていたので、少し前から準備を始めていました。家に来て看護をしてくれる派遣看護師や介護士、そして末期の在宅医療に必要な酸素ボンベや医薬品などの手配を済ませていました。でも看護師や介護士が家にいると落ち着かないという妻の希望を叶えるために、私がその代わりを務めることにしたんです。痛み止めや栄養剤の点滴、そのための自動注入ポンプの操作法など、病棟の看護師から特訓を受けて準備しました。

 帰宅した夜は、妻の所望で九州からアラ鍋のセットを取り寄せました。それを妻は口内がただれていたにもかかわらず、「おいしい、おいしい」「家は、つまり自宅はこうでなくちゃ」と喜んで食べていました。私は妻が喜んでくれるのが嬉しくて、帰宅させてよかったと泣けてきました。妻の「家で最期を迎えたい」というささやかな願いを叶えることができ幸運だったと思います。

 ただ、妻の場合は、私が医師、看護師、介護士の三役を兼ねてようやく在宅看護が実現したものの、医療知識のない人の場合には在宅看護のハードルはかなり高く、よほどしっかりとした社会的な支援体制がないと難しいと感じています。

家族を亡くした喪失感

――奥さまを亡くしてからのご自身の喪失感はすさまじかったそうですね。

垣添忠生さん

 入院中、妻の世話をするのは何の苦もなく、病室でできることは何でもしました。下着の洗濯、抜けた髪の毛の掃除、食後の口腔ケア。床ずれ防止のために背中にクリームを塗ったり、マッサージもしたりしました。妻が明るい顔をすると嬉しかったですね。病院で妻と過ごした1日1日は、私の人生の中でもっとも充実した密度の濃い時間でした。

 その分、妻を失って、妻と話ができないことが何よりつらかった。夜は睡眠剤を飲まないと眠れなくなり、酒びたりで、体重は減る一方でした。

 妻は「葬儀をしないでくれ」と言っていたので、妻のことはよほど親しい人にしか知らせていなかったのです。だから私のところへは何のお構いもなしに仕事が山ほど来続けました。日中は出かけて行って猛然と仕事をこなしました。忙しくてつらいけど、その間は妻のことを忘れられました。それでも半年くらいは気が滅入ってしかたがなかったですね。

遺された家族にも必要なケア

──十分に知識をお持ちであっても、そのような精神状態になるのですね。

 医師になって40年あまり、朝から晩まで年中忙しく働いてきました。どんなに早く家を出ても、どんなに遅く家に帰っても、妻は嫌な顔ひとつせず、いつもそばで支えてくれました。退職してようやくこれから妻に楽をさせられると思っていたのに皮肉なものです。

 私はたくさんの患者さんを看取ってきましたし、ご家族を見ていて、最愛の人を亡くすのはすごい喪失感なんだなと、わかっていたつもりでした。でもいざ自分がその身になってみて、十分理解していないことに気づきました。

――そういったご自身の経験から、家族に対してどのようなケアが必要だと感じましたか。

 そうですね。悲しみや落胆はしようがない。大事な人を亡くしたのですからしかたのない一面があると思います。問題はそれがどれくらい続くかには個人差があって、当人にも周囲にもわかりにくいということです。

 やっぱりどこかで意識的に立ち直らなければだめだと思いましたが、私は周囲の助けを借りようとは思いませんでした。でも助けを借りたいと思う人はいるはずです。その助けをいつでも必要なときに受けることができるのなら、よいサポートになると思います。

 私は、家族を亡くした人の悲しみを癒すグリーフケアの存在を知っていましたが、一人で耐え抜きました。しかし、希望者に提供するグリーフケアの内容を深める必要があると思います。

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