喉頭・咽頭がんの体験談

悩みや不安を抱えたときにどのようにがんと向きあえばよいのか。
自分らしくがんと向きあう患者さんやご家族の体験談・メッセージなどをご紹介します。

みなさまの
体験談
家族
  • がんの治療を終了

喉頭・咽頭がん 31歳 女性 看護師

父は53歳の冬に中咽頭がんステージWの診断を受けました。そこから約2年間の闘病を経て、55歳で旅立ちました。看取った当時、私はまだまだ駆け出しの看護師2年目でした。
父は透析をおこなっていたために、抗がん剤治療は受けられず、手術と放射線療法での治療となりましたが、翌年に甲状腺・他リンパ節への転移を認めたため2回目の手術。大血管を巻き込んでいたため、腫瘍は取りきれず、再度放射線療法を受けましたが、進行を食い止めることはできませんでした。
最期の半年、骨転移の痛みから麻薬性鎮痛薬を使いながら、休日には母と二人きりで(長子の私が生まれて以来)キャンプへ行くなどしていました。予後の告知を受けたのがこの頃だと、最近になって母から聞きました。12月に入ってからは、私たち姉弟が子供の頃、連休の度に連れていってもらった長距離ドライブ旅行を、今度は私と弟の運転で行きました。翌週には30年以上続く中学高校の同窓会へ行って十数年振りの朝帰りをし、本人なりに残された日々を満喫していたようです。
腫瘍によって気管が圧迫され、気管切開術を受けた後は、発声用バルブ越しでしたが、毎日父の「いってらっしゃい」と「おかえり」の声を聴いて仕事へ通い、生まれてから二十数年間繰り返してきた、当たり前の毎日を過ごさせてもらいました。
当時、両親から病状や症状を語られることはなく、年末に脳梗塞と肺炎を併発して緊急入院となった際に、母から初めて予後1カ月と知らされました。
今思えば、多少なりとも医学知識を持つ私が断片でも知れば、残された時間までもきっと察するだろうと、駆け出しの看護師として日々奮闘していた私に余計な心配をかけまいと思ったのではないでしょうか。
しかし私は、日々生死に関わる仕事の中で、当たり前の日々が必ずしも明日も続かないことを知っているにも関わらず、見て見ないふりをした自分へ怒りを覚えました。そして心配をかけまいとする親としての選択に対する感謝と悔しさで、とてもやり切れない気持ちになりました。その気持ちは、正直今でも変わりません。
予後が週単位となり、父の幼馴染を通じて総勢10名以上の友人の方々に面会に訪れていただきました。しかしどうしても1名だけ都合がつかず会えていない方がおり、ようやく都合がついたとのことで面会に来られた昼下がり、「また会いに来るから、それまで頑張れよ」と握手をし、父も目を閉じたまま笑って頷いたのが最期で、その方を待っていたかのように息を引き取りました。

勇気づけられた言葉、場面

入院当初、父は友人たちには年賀状で挨拶はしたからと話していました。しかし徐々に日中も眠っている時間が増えていった頃、不意に「幼馴染に会いたいなあ」とつぶやいたのです。
そこで母と相談し、父の幼馴染へメールを通じて、可能であれば面会に来てもらえないかと連絡をとったところ、翌日から総勢10名以上の友人の方々が面会に訪れ、仕事帰りに寄っていかれる方や、地元から3時間の冬道を車で飛ばして、毎週末顔を見せに来てくれる方の姿を目の当たりにし、父がどれほど周囲に愛されていたのかを知ることができました。また偶然かもしれませんが、最後まで都合がつかなかった友人に会えた直後に旅立ったことから、最期まで友人思いの父であったと思います。

また娘として父に付き添いながらも、職業柄「ああ、あと一週間くらいだな」「あと2〜3日だな」と、判ってしまったことが辛かったです。ですが、当時まだまだ駆け出し看護師の私にも関わらず、緩和ケア病棟のスタッフ方のご厚意で、ある程度の処置は私がおこなってよしとしてくれました。
いつも看護師として働く私を応援してくれた父に、一人前となった姿を見せることはできませんでしたが、看護師として父の看護をさせていただけたことがとても嬉しかったです。